▲▲鎮守府
「戦死した親族がいる」 とか 「軍人だった身内がいる」 とか
今までそういう話を聞いたことがなく、深く考えたこともなかったのですが
今回、島に行って初めて特攻で亡くなった伯父さん(私の祖父の兄弟)が
いたらしいと聞きました
伯父さんは 『部下達だけを特攻に出す訳にはいかない』
と言って出撃して行ったのだそう
7/20沖永良部島 本家の墓地内
実は島に行く前に、11年前にもらった戸籍簿を見なおしていて
「戦死」 の2文字を見つけていました
帰ってきてからもう1度見てみると・・・・
○○年○○月○○日 時刻不詳 △△方面にて戦死
◇◇年◇◇月◇◇日 ▲▲海軍人事部長 報告
時刻不詳なのも、△△
方面っていうのも、戦死してから報告まで
約1年
経ってるっていうのも、なんだか淋しいなぁ・・・と思い
書いてあることを手がかりに調べてみましたが確実なことは何もわかりませんでした
伯父さんが戦死したとされている日はある海戦の前日だったこと
その数日前から前日までの航空戦がきっかけで海戦がはじまったこと
その海戦から特攻隊が出撃するようになったこと(ちょっと矛盾?)
7/20沖永良部島 現自衛隊基地内
島に関することでは・・・・
昭和18年11月5日に初めて島が砲撃され、終戦まで何度も爆撃を受けたりして
犠牲者も多数出たこと
集団自決豪が掘られていたこと
米軍との空中戦や艦砲射撃で海に墜落する特攻機が多数あったこと
島の近くで米軍に見つかった特攻機は海の方へ海の方へと飛んで行き戦っていたこと
(島に被害がないようにする為だったのでは?と島民の方)
海岸に流れ着いた遺体を島民の人たちが火葬や埋葬していたこと
昭和28年12月25日 奄美群島本土復帰
などなどを知ることができました
島に行った2回とも、戦争の影というものは感じなかったけれど
閑かでこんなに美しい風景の中には
尊い命と過酷な歴史と悲しい光景が内包されていることを
忘れてはいけないんだな。。。。
7/19沖永良部島 屋子母海岸
伯父さんの戦死について、もう1つ…
鎮守府からの報告日はその組織が廃止された日でした
身内の方たちには、確かな事を知らされていたらいいなぁと思います
7/20沖永良部島 今は誰もいない本家